第四章 ジェイムズ経験論の意義

第三節 ジェイムズ経験論の神話

 ジェイムズ経験論がわれわれに伝えるところのものは、心の万華鏡の中に展開される生の雄たけびである。そのうつし絵はわれわれの感性をくすぐるなにかを訴えかける力強さをもっている。ジェイムズはヘーゲル哲学を「一つの鼠とり器」と称して、その深遠さ、広大さからくる理解のむつかしさを賛美し、且つ揶揄したが、ジェイムズ経験論においても又その具体的きらびやかさからくる多様性に幾多の人が心をうたれ、且つ幻惑させられている。
 ヘーゲルとは対照的なこのジェイムズの経験論も又なぜに魔力的なのだろうか。それはヘーゲルと違ってジェイムズの考えの難解さの故では決してない。むしろわれわれはジェイムズの考えについて、そしてジェイムズが何をいおうとしているかについては、わかりすぎるくらいにわかっているつもりである。ところが今度は理解したわれわれの方が独断的判断を下したのではないか、という心の不安となり、又ジェイムズ経験論にはもっと奥深い意図が隠されているのではないかという詮索の心をおびやかすことにもなるのである。たしかにジェイムズ経験論はそのような心をかきたてる特徴をもっている。
 そこでわれわれはジェイムズの主張の根源にあったものがなんであるかをもう一度、しかも別の観点から確認してみよう。われわれはそれが、ペリーのいうように「人間の精神の本質的に能動的で関心的な性格の観念」
(一)であったということを忘れるべきではない。かかる根源的観念はジェイムズの確信として常に彼の心の中に存在しており、彼の多元的な表現はいわばその証しであったのである。われわれは以前ジェイムズの哲学は神のための哲学でも自然のための哲学でもなく人間のための哲学である点をあきらかにした。しかしながらここでわれわれは、ジェイムズの確信の内容がわれわれ人間にとって都合のよいそれであるか故に、彼の表現されたものにそのまま心酔してしまってはならないだろう。むしろわれわれはジェイムズの根源的観念がわれわれの精神の能動性の賛美であり、そこから生まれる哲学が人間のための哲学であると主張されるその事実の中にわれわれが反省すべきなにかをみつけださねばならないだろう。
 それでは一体いかなる点にわれわれの反省すべきなにかがみいだされるのであろうか。それは次の四点にあると論者は確信している。
 一つはジェイムズの根源的観念の哲学的吐露が彼の人格的魅力とオーバーラップしている点であり、そのことによって、かかる吐露における哲学的輝きそのものよりも、ジェイムズの個人的人間像がはばをきかすようになった点である。
 二つはジェイムズの哲学的吐露はわれわれの感性的本性の働きを麻痺させる麻薬性をもっている点である。
 三つはジェイムズ経験論は人間存在に対する過大評価をもっている点である。
 そして最後の四つは、個人的人間像のあまりにも強烈なイメージの押し売りからくる、社会的視野の欠落によって、ジェイムズの考えは他から利用されやすいもろさをもっているという点である。
 論者はこれらの四点をジェイムズ経験論の神話としてきめつけ、以下それぞれの具体的省察に努めたいと思う。
 まずジェイムズの人格的魅力について、われわれはすでに第一節第一章においてその大要をほぼ知っている。しかしそこで論述されていたのはジェイムズがいかに自分の運命をきりひらいていったかについての賛辞でしかなかった。勿論われわれはジェイムズがその運命の中に自らの思想を発展させていったということを疑うものではない。ペリーのいうように、ジェイムズははじめからしまいまでジェイムズなのであり、このジェイムズは幾多の個別的なテーマに関心をよせつつも彼自身の根源的観念をあきらかにしていったのでである。その意味では心理学時代から宗教及び道徳の追求の時代をへて、哲学時代に至る彼の関心の推移は、紆余曲折の中で、彼の根源的観念を深化させていることのむつかしさを見事にあらわしているといえるだろう。
 だが、ジェイムズは論理よりもビジョンを大切にした哲学者であり、論理をしのぐ生のあり方に魅せられた経験論者であるといわれている。このことはひるがえって、ジェイムズの根源的観念そのものの中に秘められる、哲学的な深みをほかす役目をはたしてはいなかっただろうか。いいかえれば彼の根源的観念の追求の仕方が、オルポートのあげるいくつかの論理的矛盾についての徹底的な解明にもならず、一種の心理劇の展開をもたらしたにすぎないのではなかっただろうか。
 かかる疑問が生じるというのもジェイムズの気質があまりにも強いせいであり、われわれがいつのまにか彼の気質のあらわれがそのまま哲学を形成していると錯覚させられてしまったからである。ジェイムズが哲学を人間の気質に還元してとらえなおす考え方をとる時、それを一つの考え方としてわれわれは否定することはできない。しかしこのわれわれの態度は何もジェイムズにおける思考のパラドックスの存在を免罪するものではない。むしろジェイムズの哲学に対する考え方に同調するわれわれがジェイムズ経験論を哲学的思考の模範として、哲学の新しい夜明けをむかえる可能性をあまりにも期待する方に問題があるのである。
 ジェイムズにおける思考のパラドックスは、彼の学問的態度と日常における実際的態度のオーバーラップを示しているにすぎない。それ故にジェイムズ経験論はかかる二つの態度の忠実なる反映であり、それらが葛藤の上において、なおかつ未解決のまま現出したものではなく、それらも又われわれの経験論的世界の単なる事実であるという強烈な信念に支えられて、共存可能であるように、まわりくどくいっているにすぎないのである。
 しかるにわれわれはジェイムズのかかる事実の単なる陳述を、そして論理的に考えれば幾多の矛盾をかかえているジェイムズ経験論を、彼のあまりある個性の強さの故に、なにか崇高な哲学的あらわれとしてうけとる傾向をもたされている。それ故に本書の冒頭に論者が行ったように、哲学者の生活と考え方を心理的に分析することが一つのすばらしい哲学を形成しうるという神話が生みだされたのである。
 この神話は一人の哲学者の考えを理解する上に、役だっている。しかしながら、かかる分析そのものが一つの哲学をあきらかにしうるのではない。しかしジェイムズの考えを理解しようと思う場合には、どうしてもかかる分析があたかも必要条件であるかのように感ぜられてくるのである。否むしろわれわれは彼の論述の意図に忠実になればなるほど、彼の根源的観念が実は現実のジェイムズの生き方、考え方でもって検証されているのではないかと思ってしまうのである。そのことは何もジェイムズの根源的観念なるものの浅薄性を意味しているのではなく、彼の人格的魅力と個人として雄々しく生きていこうとするすざましい気魄がかえってわれわれをして彼の根源的観念の追求を無意味ならしめている、ということを意味しているのである。
 さてジェイムズ自身においては、この根源的観念、即ち人間精神の能動性の観念、の追求は一貫してなされていただろう。彼の「非体系的なる逍遙」は決して彼の気ままさのあらわれではなく、根源的観念を追求する方法であったのであろう。それは認められるとしても、そのことと彼の根源的観念が十分に解明されているとわれわれが判断することとは別である。なぜならばジェイムズのこの非体系的なる逍遙の意図にもかかわらず、われわれが彼から感銘をうけるのは、この観念についての彼の論述内容からであるというよりも、彼の人格そのもの及び彼の事物をとりあつかうときの一貫した態度からである。そこにおいてわれわれがジェイムズを理解したと思い至るのは彼の性格であり人格であって、彼の思想ではないのである。
 それでは一体われわれは彼のどのような人格及び性格を理解したというのであろうか。ペリーは『ウィリアム・ジェイムズの思想と性格』の中でジェイムズにおいて病的な特性morbid traitsと温厚な特性benign traitsがある点を指摘している。
(二)われわれはペリーの指摘する二つの特性を例にあげてこの点を解明してみよう。病的な特性とは、たとえばメランコリーにくよくよする傾向(たとえそれが果敢に克服される対象であるにしても)であり、異常な心的状態に対する関心であり、極度の心変わりの傾向であり、精密な思想過程に対する病理的な嫌悪感である。又温厚な特性とは、感官の鋭さに基づく、感受性の高さであり、心的な華やかさや好奇心に燃えたぎる溌剌さであり、知的騎士道的精神と思いやりにあふれた人間味の豊かさであり、異常なまでの社交性である。
 これら二つの特性はおたがい矛盾するものではない。ジェイムズの心の中に共存していたものなのである。そこでわれわれはジェイムズの緒論文ないしは本書におけるこれまでの論述から何を学んだかについて考えてみた場合、ジェイムズのかかる特性を知ったというのであれば、まさにジェイムズ経験論の神話にまきこまれてしまったことになるといえるだろう。
 われわれがジェイムズの哲学、即ち彼の根源的観念を探ろうとして、結果的に彼のかかる気質を知ったにすぎなかったのであればわれわれは一つのとりかえしのつかない無駄を行ったことになるのである。その意味では、もしジェイムズが二つの哲学的気質を真に賛美したいという野心をもっていたならば、論者はまさにジェイムズの術中に陥ったといえるだろう。その最たるものは、ジェイムズの根源的観念が彼のもつ哲学的気質以外のなにものによっても説明されえないとするわれわれの錯誤である。賢明な人間であるならば、かかる哲学的気質はただの人間の性格を意味するだけであり、そして、かかる哲学的気質から生まれる主張が人間の能動性についての考えをなんら保証しているものでないことを容易にみぬくであろう。
 しかしこのことはわれわれにはなかなかにむつかしいことであろう。なぜならばジェイムズ経験論はわれわれの眠れる感性を刺激し、思う存分に共感の念を喚起させつつ、同時に感性そのものを麻痺させるという麻薬性をもっているからである。それをわれわれはジェイムズ経験論の第二の神話と名づけよう。
 オルポートは『ウィリアム・ジェイムズの生産的パラドックス』の中で、ジェイムズにおける思考のパラドックスを指摘する前に次のような興味深い文章を書いている。「現代の心理学者がジェイムズの思想の詳細な部分をよけつつも、彼の名に服する傾向にある、より特殊な理由があると思われる。その理由は今日の読者がしんそこ困惑しているということである。最初は、明晰さと感激によってひきずられて、非常に多くの別々の観察に対し、今までに出会ったいかなるものよりもその輝きとらわれ、熱心に同意する自分をみいだす。しかしまもなくお互いに矛盾し、三段論法についての自分の感じを侵害する諸命題にでくわす。自分が読めば読むほど、矛盾は積み重ねられ不快が激しくなってくるのである。」(三)
 オルポートはそこからジェイムズの思考におけるパラドックスが、彼自身の成熟せる生の哲学の忠実なる反映としてあり、プラグマティズム、多元論及び根本的経験論の理解によって解明される点をあきらかにするのであるが、しかしわれわれはオルポートのいうように簡単にきめつけるわけにはいかないであろう。むしろかかる冷静な結論の中に飛躍性を認めねばならず、ジェイムズの主張がどんなに解明されようともラッセルのいうように、次第に熱くなってくる風呂の中でいつ叫んだらよいかわからないわれわれのいらだちをおこさせる麻薬的性格をもっている点に注意すべきなのである。即ちオルポートのこの引用文の前半の部分にわれわれは注意せねばならないのである。
 オルポートやラッセル(実は彼もジェイムズの主張の論理的矛盾については気づいていた。)のようには洞察力のないわれわれは、ともすれば、ジェイムズの個別的な主張に注意を払い、それがあまりにも経験的事実に即しているだけに、ジェイムズの観察力に驚嘆してしまう。ジェイムズのいわんとしているところのものがあまりにも明晰であり、感激性をもっているというのは文字通りの事実なのである。なぜならばそれは具体的であり、直接的であり、生命があふれんばかりであり、われわれのこれまで経験してきた感情の動きを代弁してくれているからである。
 そのことはわれわれに一体何をもたらすのであるか。丁度、あまりにもすばらしい演奏のために幕が降りた後に、しばし拍手をするのさえ忘れてしまった聴衆のように、われわれはジェイムズの主張を聞いて、それについて思弁することさえ、忘れてしまうのである。あるいは思弁したとしても、余韻が強く残っているために、ジェイムズの主張の論理的矛盾の存在がジェイムズ理解にとって重要ではないと思いこまされてしまうのである。それ故に後になってわれわれはジェイムズ経験論は細部において問題があるという風に感じつつも、全体としては、なにかすばらしい、荘厳なものであると判断してしまうのである。
 だが正しくはジェイムズ経験論は細部においては、即ちきりはなされた諸部分においては欠点はないが、全体としてとらえた場合に、結局なにをいっているのかわからないというあいまいさをもっている、ということなのである。もとよりこの欠陥はジェイムズ自身にのみその責を負わせるべきものではない。なぜならば、それは経験論的な考えに共通してみられるからであり、細部はそのどれをとってみても経験的事実の表明でないものはなく、そしてその細部の各々は将来の経験によって無視される宿命をもつものであるからである。
 経験論者にみられるするどい観察力は部分的事象に対してのみ発揮せられる。ジェイムズ経験論においても例外ではなく、その中においてジェイムズは部分から全体への思考を採用する。しかしジェイムズにおいてはその思考方法は、彼が口でいう程に、重視されていないようである。それは何故にそういわれうるのであるか。
 経験論が部分から全体へと思考をすすめるのは、経験論がいかに事実に基づく考え方にたつのを原則にするとはいえ、その事実における本質的なものを探ろうとする観点からである。いいかえれば事実が単にあることに満足しないで、事物が何であるかについて、知ろうとするからである。ところがジェイムズは事物が単にあるばかりではなく、われわれに知られ、報告されなければならない点についてまでは認めるけれど、その意味しているところのものは事物が何であるかに決疑論的にあきらかにしているのではなく、事物がどのように機能しているか、ないしは現象しているかについてあきらかにしているにすぎなかったのである。それ故にジェイムズは、たとえ部分的事象に注意をむけているとはいえ、それの本質について考察する姿勢をもっていなかった。そしてジェイムズは部分的事象がわれわれのみえるところのものとして、従って唯一の経験的対象として、それだけでわれわれの思考を満足させる実際的価値をもつかのように主張しているのである。
 このジェイムズの考え方はその対象が具体的であり個別的であるために、われわれにとっては同意する以外のなんの情緒もよびおこさない。なぜならば一つにはそれは事実に基づいているからであり、二つには、さきほどにも述べられているように、明晰さと感激性をもっているからである。そこでもしわれわれがオルポートやラッセルのように、ジェイムズの主張にみられる論理的矛盾やあいまいさに気づく程の論理的思考力をもち、且つそれをたえず緊張して使用しなければ、いつのまにかジェイムズ経験論の個別的主張のもつ魅力にとりつかれ、ついにはただやみくもに彼の哲学的気質を自分ももちたくなるようになり、そのことでもってジェイムズ経験論を把握したような気持になってしまうだろう。
 だがジェイムズ経験論はそんなわれわれの理解の外にあるかもしれないのである。というのは、たしかにジェイムズ経験論が彼の根源的観念であるところの人間の精神の能動性の観念をめぐって展開されているという点をみぬいたとしても、われわれは人間の精神の能動性についての意味を誤って解釈する危険性をもっているからである。
 これは何に根ざしているのであろうか。ジェイムズの主張のたくみさである。ジェイムズ自身、論理をしのぐ生それ自身が重視される点をくりかえし強調する。それは単にジェイムズの信条であるばかりではなく、彼の論述においても実践されている。論理をしのぐ生の重視は思弁の対象であるばかりではなく、彼の論述そのものが生のように躍動して論理をしのいでいるのである。
 このジェイムズの論述技術は論理がわれわれの精神を納得させるのと同じ迫力でもって、われわれの精神に対する影響力をもっている。そこにおいては、ジェイムズは自分の考えが論理的に正しいかそれとも誤っているかどうかは問題にしていない。論理的に誤っていても主張される内容が心的事実に基づいていれば、そしてわれわれの精神になんらかの実際的効果をもたらしていれば、それは否定されざる力をもっているのである。われわれがジェイムズ経験論を神話とせねばならないのは、かかる誇張を冷ややかにみている内、いつのまにか自分達もその誇張を認め、その誇張を思考の武器にしてしまっているところにあるのである。
 さて、ジェイムズの人格的魅力とそれによって思わずひきこまれてしまいそうなたくみな事物のとりあつかい方にプラスして、われわれがジェイムズ経験論を神話とみなす根拠は、人間存在に対するジェイムズの過大評価にもみられねばならない。ジェイムズの考えに従えば、哲学は人間のための哲学であり、神は人間に利用される道具であり、そしてその人間はあらゆる可能性をもち、しかもそれを実現しうる存在である。ジェイムズの主張の背後に流れ、常にわれわれに語りかけているのはまさに「人間万歳」のシュプレヒコールである。ジェイムズは常に人間について話しており、神や自然や世界について考えている時においても人間の思考や行動のすばらしさを考察し賛美している。
 ジェイムズにあっては人間があって、はじめて神や自然や世界があるのである。人間の賛美とは具体的には人間の経験の賛美である。それ故にジェイムズにあっては人間の経験はいかなる他の存在ないしは自己の判断にも先行する絶対的事実である。かかる経験が否定されることは決してない。そしてその経験がいかにわずかな評価しかうけず、又存在としても目にみえるかみえないかの微少な部分であっても、経験されてある限りにおいては、われわれの知性や創造主が想定している所の絶対者によっても抹殺されえない存在価値をもっているのである。
 もし経験がなんらかの規制をうけるとするならば、それはその経験的主体である同一の人間の新たな経験によるしかない。その意味では経験はそれ自体をとりだせば絶対的事実でないかもしれない。なぜならば経験は他の経験によって修正せられるからである。しかし経験はその経験的主体である人間を除いて他のいかなる存在の考えを許さないという意味において、自立しているのであり、この自立の観念は経験的主体である人間がたとえば絶対者の意識の構成部分であるという考え方を排除しているのである。このことは言葉上絶対者が想定されているとはいえ、人間の前には絶対者があるべきではなく、又仮に絶対者があるとしても人間の尺度にてらしあわされた絶対者でなければならない点を伝えている。従って人間を超える絶対者などはないのである。それ故、人間はまさにプロタゴラスのいうように万物の尺度であり、人間の経験は創造的行為以外のなにものでもないのである。いいかえれば人間の経験が絶対者の行為になってしまっているのであり、批判されるべきいかなる欠点ももたないのである。
 われわれはジェイムズのかかる観点がまさに人間に対する過大評価であるといわねばならない。はたして人間は絶対者なのであろうか。ジェイムズは口先では人間の有限的性格を強調するひかえめな態度をもっているが、その裏では、依怙地なまでの人間崇拝の念に満ちている。このジェイムズの態度はわれわれに一種の喜びの感情を与えている。なぜならばジェイムズの論述からわれわれはまるで自分が賞められているような気がするからであり、かかる感情のもとでは、ジェイムズの考えに 多少の通俗性、浅薄性が認められたとしても、なかなかそれらを批判する意欲が生じないからである。
 しかしジェイムズの人間崇拝の念は両刃の剣である。なぜならばそこから人間がすぐれた能力の持主であるという評価のもとに、善や正義の世界ないしは理想的世界がすぐにうちたてられ人間の能動性の方向が明るい未来にむけられているという考えがうちだされてくる一方、人間がすぐれた能力の持ち主であるとみなされる以上、彼が悪や不正義をなした時に、致命的にそれに断罪を下すことが不可能になってしまうからである。
 とはいえジェイムズは人間崇拝の念の帰結する両刃的性格を楽観主義的にとらえることによってかかる問題それ自体を軽視しているようである。即ち前者の性格はまさに人間の精神の能動性のあらわれであるとして是認すると同時に後者は、仮にそれが事実として認められたとしても、雄々しき人間の意志の作用によって容易に克服されていく対象として、みることによって、人間万歳の精神をうたいあげようとするのである。要するにジェイムズの心中には、俗っぽくいわせてもらえば、「人間ならなんでもできる」という信念が秘められているのであり、現存する諸悪や暗い側面は、その人間の決断しだいでいつかは解消されていくものとしてあるのである。もしそれが事実であるとするならば、われわれはジェイムズの人間存在に対する過大評価をすなおに認めてやるべきであろう。
 しかしながらわれわれがジェイムズのかかる評価を批判しなければならないのは、ジェイムズが人間をあまりにも部分的にしかみていない点を認めているからである。ジェイムズは人間の精神の能動性を主張する時、それは多分に主観主義的である。従ってジェイムズは観念の世界において人間の精神が自由に飛翔することでもって、能動性の観念を導きだしているのである。それ故に、たとえばジェイムズが悪を駆逐し善を獲得する戦いを一つの課題とすることの中に倫理的事実をみるといっても、その悪自体は観念としてとらえたものであり、その克服はジェイムズの自由な意志によっては可能であるかもしれないが、それでもって人間存在についての安易な絶対視はできないのである。
 その意味ではわれわれは人間存在に対してはもっと悲観的にみるべきであるかもしれない。いいかえれば、まさに経験論者の口を借りれば、人間存在についてもっと冷静にみなければならない。ジェイムズは人間存在についてありのままにみているのではなく、ジェイムズにみええるがままにみているのである。
 ジェイムズ経験論の第三の神話はわれわれをしてジェイムズの偏見的な人間観を認めさせるところにある。しかもそれは人間存在をなんら悪い面においてとらえようとしないところに神話的といわれる必然性をもっているのである。われわれはこの点から次の諸点について銘記すべきであろう。
 即ち第一に人間存在に対する過大評価は、単に人間が経験する主体である故をもってなされるべきではないということである。とりわけジェイムズにとって経験とは可感的経験以外のなにものでもないのであるから、経験が現象としてとらえられる傾向にあり、従ってわれわれはジェイムズの考え方に従えば事物の本質を理解しないままに、その現象に対処していくのが、唯一の人間の能動的な特性のあらわあれであると思い誤る危険性をもっているのである。
 第二に人間存在に対する過大評価は、もし個人的人間の賛美を意味しての結果であるならば、社会的にはエゴイスティックな人間の存在を認めることになるということである。この際個人が生物的個体として激しい生存競争の末にはえある権力者の地位につくことが人間存在のすばらしさの証しであるとみなされる危険性が多分にあるのであり、それがジェイムズ経験論の卑俗な目的であったとも評価されかねないのである。それ故われわれはジェイムズ経験論の第三の神話に対してももっと冷静にならなければならないのである。
 ジェイムズ経験論の第四の神話は、彼の個人主義的偏重への警告となっている。これまではわれわれとジェイムズ個人との関係において神話が成立するとみてきた。そこではジェイムズの人格的魅力にのみ考慮し、哲学的省察を加えるべき態度の欠如や、人間に関するジェイムズの考えに対する誤れる同意と判断をもつわれわれの弱さがこの神話を成立させる契機をつくった、と考えられるべきなのである。しかしながらジェイムズ経験論が社会的に果たしている役割を考えた時、われわれはこの第四の神話、即ち、ジェイムズ経験論が社会理論としては利用されやすい特徴をもっていることについてゆゆしく考えなければならないだろう。
 これはなぜであろうか。まずそれはジェイムズが人間を個人としてみる傾向をあまりにももっている点にある。すでにあきらかにしたように「個人の神聖さに対する民主主義的尊敬」はジェイムズの人間に対する中心的な考えである。だがこの内容を吟味したとき、第三者から最も歓迎されるうけとられ方は次のようになるだろう。個人としての自己はあらゆることをしてもよい自由と能力をもっている。従って個人が自らの意志に従ってそれらを行使するとき、誰も干渉すべきではない。丁度それは第三者が自分と同じ行使をする場合、自分はそれに対して認めてやるか、それとも放置しておくかすることができるように、それぞれがお互いの関心のもとに自己の運命をきりひらいていくべきである、と。
 ジェイムズの意味する民主主義とは他人を自分の関心外にある存在としてつっぱなすことであった。たしかにそれは他人が自分と同じ権利をもつことを認めそれ故に他人の尊厳性を認めることにはなる。しかしその結果、他人をつっぱなし、他人に無関心でいてやることが、かかる認容を保証していることになるという考えを導きだしているのである。表面的に考えればこのジェイムズの考えはこれまでの三つの神話とつながっており、ジェイムズ経験論に賛同する者にとっては、十分に理解されるところである。なぜならば、それはやはりジェイムズのヒューマニズムを正直にあらわしているからであり、他人をつっぱなすという論者の表現とはうらはらに、ジェイムズの一貫した暖かい心の帰結であるからである。
 するとジェイムズ経験論のなにが問題であるといわれるのであろうか。それは、ジェイムズ経験論が強者の論理としてしか機能しえないということである。ジェイムズ経験論にみられる主知主義的な考えは弱者にとれば一種の鞭のようなものである。それはまさに消えんとするローソクの火に最後の輝きをしめすように強要している。その強要はいわば残された自分の蝋を使いきることによって、ローソクの使命を達成せよという過酷な命令に等しくそこには新しい蝋が与えられる保証はどこにもない。
 ジェイムズ経験論は人生を自らの力できりひらいていき、雄々しく生きる姿を賛美する。しかしあらゆる状況のもとで自らの力で人生をきりひらいていけない人ないしはきりひらいていけなかった人に対してはなんの手もさしのべていない。それ故にジェイムズ経験論はたまたま幸運な運命のもとに人生をきりひらいていった人が自分の行為をほめたたえる懐古録ともみなされるるのである。たとえばジェイムズは次のようにいう。「『みよ、私は今日お前の前に正と善および死と悪をおいた。そこでお前やお前の子孫が生きられるように生の方を選びなさい。』─この挑戦がわれわれになげかけられる時、試練にたたされるのは、ただわれわれの性格全体であり、個人的才能だけである。」
(1)
 この言葉はわれわれにとっては心を鼓舞させるあたたかさをもっているが、他方、現実的に考えれば、次のようにしかうけとれない。「さあ、ここにプール付きの豪壮な邸宅とその横に小さな掘ったて小屋がある。お前の才能次第でいつでも邸宅に住めるのだから、大いに努力しなさい。」この結果、小さな掘ったて小屋に住むようになった人間は、その努力の程を理解されて、放置され、又当人は自分の心掛けが悪かったと思いこまされているのである。それに反し、邸宅を手にした人は、それまでに、幾多の賭をし幾多の障害(ジェイムズにとれば悪という倫理的な対象にもなる。)をのりこえてきた自らの努力をその邸宅をえた原因にし、ますます努力の必要性を痛感するようになるのである。
 だがはたしてわれわれの性格全体と個人的才能が努力という触媒をえてすべてをきめうるものであろうか。もしそうであるとするならば、それは一部の運のよい、それとも強い力をもつ、人間にのみあてはまっているのである。そしてかかる挑戦によって、無力な人間(しかも尊厳性をもっているとおだてられている人間)は見事にきりすてられているのである。
 ジェイムズは人間にはあらゆる可能性をもっている能動的な精神があると信ずることによって、すべての人間が強者であると思いこんでいるのではなかろうか。もしそうであったなら、彼のヒューマニズムは最後には人間に対する冷淡さをあらわにするよそゆきのポーズでしかなくなる。あるいは彼の人情味は強者が弱者に与える慈善のようなものでしかなくなる。なるほどジェイムズ経験論の内容はわれわれの精神の眠れる可能性を開発する方向にむけられている。それは病める魂を勇気づけ、無力な人間をふるいたたせる。おそらくジェイムズ自身もそのような意図のもとに彼の経験論を展開しているつもりであろう。
 ジェイムズの意図は哲学として考えた場合は少なからず成功している。なぜならば、ジェイムズ経験論は、心理学的根拠に基づいているにしても、見事な「生」の哲学を謳歌しているからである。しかしながら社会的に果たした役割の観点からみてみた場合、ジェイムズ経験論は病める魂や無力な人間の弱点、即ち人間のエゴイスティックな欲求、の心的構造を最も辛辣に解明しているのである。われわれはこの点にジェイムズ経験論が社会理論としては利用されやすい特徴をもっていることに気づかなければならない。皮肉なことに利用するのは病める魂の持主ではない。彼らはジェイムズ経験論を聖書であるかのように感じるだけであり、ジェイムズ経験論を知ることによって、自らの病める魂を一時的に安息の眠りにつかせるだけである。
 ジェイムズ経験論を利用するのは常に力のある者である。そして現実には権力者である。彼らはジェイムズ経験論における主知主義的な考えやプラグマティックな事物のあつかい方が、権力をもたざる人に対してきわめて有効に働くことを知っている。なぜならばジェイムズ経験論はその主意主義的な考えにおいて幻想的未来をわれわれに約束させており、プラグマティックな思想において現実にとけこむすばらしさを示唆しているからである。そこにジェイムズ経験論が政治的に一つの力をもった道具として貢献する根拠がみられるのである。
 もとよりジェイムズ経験論そのものは政治理論、より一般的には社会理論、であるとはいわれえない。むしろ、これまでの考察であきらかなように、ジェイムズ経験論は、社会的視野の最も欠落した、だが人間の心理的部分を徹底的にほりさげた、哲学である。そのくせ哲学に重要な論理的働きを軽視し生そのものを重視した特異な哲学である。他方ジェイムズ経験論は個人主義的であり、倫理的である。
 こういった特徴が、純粋の哲学として理解されるというよりは、ある種の社会理論として考えられた方が、最も社会に役立つのではあるまいか、と考えられるところに、ジェイムズ経験論の神話が生じるのである。その奇妙なすりかえは、ジェイムズ経験論が社会における個人ではなく、社会からきりはなされた個人の人間像をうきぼりにしているということによって、逆にジェイムズ経験論が道具としての価値をもつと判断する人達によって、なされているのである。
 さて以上四つのジェイムズ経験論の神話がある意味では誇張された形で論述されているのは事実であろう。なぜならばそこではジェイムズ経験論の部分的な特徴がとりあげられて詮索されているからであり、従って論者に都合のよいように解釈しなおされているとみられないでもないからである。しかし第一章の全般にわたって論述されているジェイムズ経験論も、本節において神話とされているジェイムズ経験論も実は同じ内容のものであり、異なった観点から論述されているにすぎないのである。
 ただここで注意されねばならないのは神話としてのジェイムズ経験論は全く否定されるべき対象としてとりあつかわれてはならないという点である。冒頭の部分に述べられたようにジェイムズ経験論を神話と評価することはわれわれの哲学的思考に対する警告としてうけとられねばならない。それはジェイムズ経験論を決して安易に解釈してはならないという警告を意味すると同時に、ジェイムズ経験論の多元的性格のなかにみられる万華鏡的なはなやかさに翻弄されてはならないという警告をも意味している。
 とはいえジェイムズ経験論の神話的性格を強調することはジェイムズ経験論の本質を伝えているという見方は間違ってはいないだろう。もしジェイムズ経験論の本質がなんであるかを尋ねられた時、神話として評価されるべきこの四つの点を(有能な読者ならば、おそらくそれ以上あげられるだろうが)あげても、致命的な誤りをおかしていることにはならないだろう。
 たしかに本節の論者は、ジェイムズ経験論を「神話」と評価するかぎりにおいては、それが利用される危険性を持っているとする判断を混入させていないでもない。だが他方われわれはそれとは逆にジェイムズ経験論を神話どころか、前述の四点こそジェイムズ経験論の本質そのものとであるしてとりあげることもできるのである。本節はこの二つをかねあわせたあいまいな論調で貫かれているが、どちらかといえば前者の方に傾いている。しかしこの前者の立場を徹底するためには、論者自身に、今以上の確かな世界観ないしは、(ジェイムズの言葉に従えば)、ビジョンを必要としなければならない。次の最終章においてその一端があきらかにされるであろう。

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